無縁墓

その駅を出ると、車窓から見えていた風景が少し大きくなってわたしの前に現れた。
遠くに低く連なる緑の山々、まばらに見える瓦屋根、そして延々と続く畑。
思っていたより田舎だった。
わたしは少しだけ風景を楽しむとためらいなく歩き出した。
迷うほど道があるわけでもない。
歩けばそのうちいい場所に着くだろう。

狭い車道の脇を歩いていると、後ろから車の近づく音がした。
ぶつからないだろうと思い、そのままよけもせず歩いているとクラクションが鳴った。
振り返ると、白の軽トラックの運転席から男が乗り出していて、わたしに話しかけてきた。
見知らぬ者でも放っておけない田舎のおじさんのようだ。
わたしを車に乗せてくれるという。
わたしは断りたかった。
でも、いい断り方を思いつかなかったからトラックに乗せてもらうことにした。

わたしはおじさんに嘘の目的地を告げた。
ここに来る前に地図でちらと見かけた寺だった。
おじさんはカーラジオから流れる演歌にあわせて下手な歌を歌いながら陽気に運転をしている。
時々、わたしの知りもしない隣人の噂話をしゃべってはひとりで笑っていた。
よくもまあこんなに楽しそうに生きられたものだ。
この人にはわたしの苦しみなどわかるはずもない。
わたしは今まで何度も、こんな風に楽しそうな人から無神経な励ましを受けて心を目茶苦茶にされてきた。
早く寺に着かないかとわたしは気をもんだ。

やっと着いた。
時計を見ると15分くらい経っていた。
わたしはおじさんに軽く礼を言った。
トラックが去ると、わたしは寺の方を見た。
寺か。
折角来たんだし少しだけ見ていくことにした。
門をくぐると、石畳にそって歩いた。
人気が全くない。
野鳥の声や風の音はするが、気味の悪い静けさが広がっている。
わたしは本堂の前に立つと拝むわけでもなくただ眺めた。
馬鹿みたいだ。
こんな建物がなんの役にたつのだというのだろう。
わたしは見るのに飽きて、石畳につられて本堂の裏に向かって歩き出した。

本堂の裏に回ると、くだりの階段があった。
階段の上から下を眺めてみると、広い墓地がある。
寺に墓。
わたしはいよいよつまらなくなってもと来た道を戻ろうとした。
が、目の端に女の姿が映り、わたしはもう一度墓地の方を見た。
墓地の細い道を1人の女が歩いている。
最初見た時は気がつかなかったが、花とバケツを携えた女が歩いているのだ。
今は盆でも彼岸でもない。
誰かの命日だろうか。
そんなことが一瞬のうちにわたしの頭に浮かんだが、何よりわたしの興味を引いたのはその女の横顔の美しさであった。
遠くからだったが間違いなくその女は美しかった。

わたしはまだ自分が女に興味を持てることに驚いた。
そんな生きた感情を今でも持つとは思っていなかった。
わたしは少しだけうれしくなってその女を上からずっと見ていた。
女はどの墓にも参らずに墓地を抜けて向こうへ行ってしまった。
わたしは何の気はなしに階段を降りて女の後を追った。
墓地を抜けると、雑草がおいしげる空き地が広がっていた。
ところどころにわたしの胸くらいまでの高さの草むらがある。
空き地の向こうには雑木林があって、更に目を遠くに向けると駅から見えた山々の連なりが目に入った。
わたしは女を探した。
女の姿は見当たらなかった。
まるで消えてしまったかのように。
わたしはしばらく呆然としてそこに立ちつくしていた。
あの女は幻だったのかもしれない。

かすかにチリンという音がした。
丈の長い草が風に揺られている。
その端から女の姿がのぞいたような気がした。
わたしはそこに向かって歩き出した。
背の高い草むらの陰に女はかがみこんでいた。
その前に、ずいぶんみすぼらしい墓があった。
墓石は光沢がなくざらざらして、おそらくかつては尖っていたであろう角は欠けてすりへっている。
彫ってある文字も判読し難い。
女はバケツから水を汲むとそのおんぼろ墓に注ぐ。
きめの粗い石は水を吸って色が変わっていく。
女はたわしでごしごしと墓石をこすった。
その動きに合わせて女の黒髪がゆらゆらと揺れて、うねった。
女は後ろにいるわたしにまったく気がつかなかった。
わたしは黙って女を見ていた。
しばらくすると墓石を磨くのは済んだようで、女はよし、と言って立ち上がった。
その時確かにチリンと音がした。
鈴の音だった。

バケツの横に置いてあった仏花をかがんで取ろうとした時、女の視界にわたしが入ったようだ。
女は仏花を取りかけたままはっとしてわたしを見上げた。
その時になって、わたしは自分がしていることがひどく怪しいということに気がついた。
女の、驚いて見開かれた丸い目から逃げるように目を伏せると、わたしは小さくすみませんとつぶやいて逃げようとした。
待って、と女は言って立ち上がった。
わたしは女をよく見た。
意外と若くはなかった。
しかしやはり、綺麗な女だった。

あなたもお線香をあげてくれませんか、と女は玉の転がるような声で言った。
わたしは立ち去ることができなくなって女の言う通りにすることにした。
女は仏花を墓に供えると、飾り気のないバッグから線香とマッチを取り出した。
わたしは自然と代わりにやりましょうと口にして手を伸ばしていた。
女は嬉しそうに笑むとわたしに線香を渡すのであった。
線香の独特な香りの中で、わたしたちはしばらく黙って墓を見つめていた。
どこか心地よい沈黙だった。
女が語り始めた。

「これ、無縁墓なんですよ」
「無縁墓?」
「誰もお参りしなくなってしまった墓のことです。忘れ去られて、お寺にも見捨てられて、こんな野原に放られて」
「あなたの家の墓ではないのか」
「いいえ」
「じゃあ何のためにこんな墓に線香なんかあげるんだ」
わたしの問いに女は逡巡していたが、じきに声を小さくして答えた。
「・・・だって、かわいそうでしょう」
わたしは目を見開いて女の横顔を見つめた。
女はふっとわたしの方を見た。
「あなたもそう思いませんか」

*       *       *        *

上り電車に揺られて駅弁を食いながら、わたしはその時の女の顔を思い出していた。
車窓は山から畑になり、畑から工場になり、工場から市街地になり、そしてやがてビルの林になった。
よく慣れた駅で下車するとわたしは自分の家に向かって帰り始めた。
どうしてかはよくわからないが、わたしはもう少し生きてみようと思った。