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どことなく嫌な空気の漂う曇った春の日だった。

生ぬるい風がソンドグの町並みをからかっていた。

ソンドグは大陸の西はずれのアバラス国の西端にある石の町だった。

リスヤ川を中心に発展してきた町で、川の両岸に沿って石畳の大通りが伸びている。

その周辺に石造りの三階建ての建物がずっと並んでいる。

今日の町は日曜でもないのに祭りのようにざわめきにあふれていた。

人々は蟻のように駆け回り、鉢合わせしてお互いぺちゃくちゃ会話した。

町全体が小刻みに振動しているようだった。

リスヤ川の左岸のキルジ通りを、

人々をすり抜けるように一人の若い男が古びたレディッシュグレイのマントを羽織り、

フードを目深にかむってさっそうと歩いていた。

男は町の人々の様子を伺っていた。

男に目を向けるものは居らず、興奮気味のひどくなまりのある声が飛び交うばかりであった。

背の曲がった赤ら顔のはげおやじがだみ声でがなりたてていた。

「聞いたかえ!世界政府の話をよ!」

それより若いが背の低い痘痕の男が答えた。

「あらぁ聞いたともよ!大臣様が変わったんじゃろけ!」

「大臣じゃねえ、ダイソウスイ様が変わったんじゃ!世界で一番偉いんじゃ!

前のソウスイのイルナが殺されたゆうて、大臣のエルダンツィア様が跡を継いだんじゃ!」

「で、あれだろ、イルナを殺した3人の犯人がハイアイアイの牢獄から抜け出したちゅうて!」

「そうぢぇえ!恐ろしい殺し屋やちゅうて!

あの牢獄から抜け出せた人間なんて400年前でもおるまいよ!」

「エルダンツィア様はその3人を捕まえちょっとしてっとな。

もし一人捕まえたら500000000ユゲラ貰えるちょよ。」

「はあは!おんどれ捕まえるつもりかえ?おんだりゃがかいね?

何を寝ぼけたことゆうちゅうね?おんだりゃは森の木を切ってりゃいいけんね。」

「じいじじい!なんちゅうね!

おりゃが木を切るだ?

あな事のあったおとろしい森で木を切るんかいね!

あの森には魔物が憑いたんね!おりゃは3人捕まえて金もろうて東にいくんや!」

痘痕はわめき散らした。と、そこに太った女が現れた。

「おんだりぇい、なにくちゃべてんだい!さっさと仕事せんかいね!」

「おんどれこそなにうろついとる!樽は消えちまいな!この脂樽!」

赤ら顔は悪態を吐くと、痘痕に目で合図をしてその場を立ち去った。

その後を女は気が狂ったように追いかけていった。

マントの男はその光景を横目に見ると、小ばかにしたように鼻で笑った。

それから腹立たしげに舌打ちをするとキルジ通りを抜けて小さい通りに入った。

キルジ通りより荒い石畳の所為で歩きにくかった。

しばらく行ったところに十字路の交点を広場にしたような場所があった。

そこも人が溢れかえり、先のおやじたちのようにわめき散らしていた。

男は難なく広場を抜けるとどんどん川から離れていった。

ソンドグは小さな町で、ひどく田舎で、しかし平和だった。

町のはずれにくると、森が見えてきた。

なんとなく薄暗い、鬱蒼とした森であった。

石畳の道が途切れて、ちょうどそこに石碑がたっていた。

おそらく通常の立て札の代わりなのだろう。

《危険!! に入るな!!》

男はまるでそれを見なかったかのようにすっすと歩いて森の中に入っていく。

と、その時声がした。

「入っちゃだめだよ!」

男ははたと立ち止まり、少しだけ振り返る。

見ると、まだ石畳の残っているところに、一人の少年がおどおどしながら立っていた。

その男の子は真っ黒でくしゃくしゃの髪に薄汚い潰れた帽子を乗せて、

だぶだぶの青いシャツと灰色の半ズボン姿で――はだしだった――深みのある鳶色のくりくりした目で男を見ている。

その手にはくたくたになった新聞が握られていた。

男は無視したようにまた前を向いて歩き出した。

「待って!森は危ないんだよ!だめだったら!」

男の子は走って男の前まで回りこんで男の歩みを遮った。

「この前森に迷い込んだ牛が皮と骨だけになって見つかったんだ。

ねえ、本当に危ないんだよ。何かいるんだよ。…え?何?」

男が急に、少年が手に持っている新聞を指した。

「…それをくれ…。」

ぼそりと低い声で男が言った。

風が吹いていたら聞こえなかったかもしれないくらい小さな声であった。

少年はびくっと後じさりする。

男のフードの中の顔を確かめるように見上げた。

あからさまに不信の目で見られて男は気分を悪くしたようだった。

男は手を伸ばすと少年の新聞をつかんで強引に奪い去った。

「あ…」

男は用が済んだとでもいうように少年の横を通り過ぎて森に入っていく。

「もしかして文字が読めるの!?」

少年の悲鳴のような声に驚いたような素振りで男は再び振り返る。

「おかしいか。」

男は笑ったようだ。

おもむろに先の石碑を示した。

「あの石碑はなんだ。文字が書いてあるじゃないか。

文字の読めない町の馬鹿どもに向かって誰があんな石碑を建てた。ばかばかしい。」

 ばかにした口ぶりだ。

少年の汚れたほっぺたがほんのり赤くなった。

「ねえ、文字が読めるんだね?この町には文字が読める人なんてほとんどいないよ。」

少年が男の顔を再び伺った。

その時、フードの陰から今まで見たこともないような灰色のぎらぎらした瞳がちらりと見えた。

少年はどきりとした。

その目は二つの小さなシルバーリングのように少年を見下ろしていた。

少年が思わず目をそらすと男は森に入っていった。

「ねえ待って…」

少年は一度後ろを振り返って辺りを見回した後、また前に向き直り、引き寄せられるように男についていった。

日が落ちた。

マントの男は新聞を広げて歩きながら読んだ。

それは少年にとっては異様であった。

ほとんど光のないこの薄暗がりでどうして新聞の小さい文字が読めるのか。

どうして読みながらなのに石ころや木の根につまずかないでまっすぐ歩けるのか。

まったく不思議だった。

「あのう…」

少年が話しかけたが男は立ち止まらなかった。

ゆったり歩いているようでとても速い。

少年はほとんど小走りだった。

「どこまで行くの?ねえ。暗くなってきちゃったよ」

「…この町には文字を読める人間はどれくらいいる?」

男はやっと立ち止まると新聞をひらひらさせた。

少年は質問したのに逆に質問し返されて、むっとした。

しかし、さっき見た男の目を思い出すと身震いして、おとなしく答えた。

「ほとんどいないよ。お役人と金貸し屋さんくらいだよ。」

「じゃあ何故こんなものを持っていた。新聞屋はさぞかし繁盛しないことだろうな。」

「お役人のアニエルおじさんに貰ったんだ。」

少年は言ったところでふと思いついた。

マントの男は威圧的で近づき難い怖さもあったが妙に親しみやすい空気を漂わせていた。

きがついたらふらふらと森の奥まで付いて来てしまった。

「ねえ、ソンドグの人じゃないね?

ソンドグの人はみんな目が黒いし、背が低くてなまっているもの。

名前を聞いてもいいかなあ?」

遠慮がちに言うと、男は少し黙って、暗い森を見回した。

男の先には道がなかった。

「早いうちに家に帰るんだな。」

「…僕には…。」

少年は少しショックを受けたようだ。

男を穴の開くほど見つめた。

男の目がきらりと光ったので少年は帽子をちょっと手で押さえてもじもじする。

口を開きかねていたが、ついに言った。

「家がないんだ。家族もいない。」

男は何の同情も哀れみも抱かなかったようだ。

懐に新聞を入れるとふんとつまらなさそうに息を吐き、少年を見た。

少年はたじろいでうつむいた。

その時足元にねずみがいるのを見つけた。

「牛を一頭食い潰す化け物がいる森で野宿する気か。」

「いるの!?やっぱりなにかいるの?見たんだね!」

いささか興奮気味に詰め寄ると、男は手を突き出して少年を止めた。

「そいつは人間も食うぞ。」

ひっくと少年は息を呑む。

足元のねずみが跳ぶように草むらに逃げていった。

男はかすかに笑っていた。

笑うのをやめると、不安そうな顔の少年をよそに、上を見上げた。

少年もその視線の先を追ったが暗くて何も分からなかった。

突如、男はすぐ隣に生えていた木の幹をどんと蹴り飛ばした。

すると、上からばらばらと何かが落ちてきた。

5個か6個か、男は地面に落ちたそれらを拾いあげると少年に差し出した。

覗き込むと――見たこともない果物だった。

少年は男の顔と果物とを見比べた。

そうしていると男が言った。

「カレル。」

それを聞いて少年は驚きのあまり目を丸くした。

「どうして知ってるの!?」

「新聞の礼だ。皮ごと食える。」

少年は呆然として立ち尽くしていた。

「僕はカレル=ハルディアだ!どうして知ってるの!?」

「要らないのか?酸っぱくないからすきっ腹にも優しいぞ。」

カレルは状況が飲み込めていないまま、果物にひかれ、とりあえずよいしょと受け取った。

恐る恐る見上げてみると、男の目は優しく光っていた。

腕の中の果物が甘く香った。

「ありがとう…。」

カレルが言うと、男は背を向けて森のさらに奥へと消えていった。

心残りではあったが、カレルも今来た道を戻っていった。

それからカレルがキルジ通りまで戻ったとき、かっちりした茶色のスーツを決め込んだ口ひげの男が向こうから歩いてきた。

「アニエルおじさん…」

アニエルはカレルに気がついたようだ。

「ああよかった!」

アニエルはカレルの姿を目に留めると小走りにカレルの方へ来た。

「おじさんどうしたの?」

カレルが尋ねるとアニエルは大きな身振り手振りで言う。

「どうしたのじゃないさ。一体どこに行っていたんだ?

町のどこを探してもいないから心配したよ。もうこんなに暗くなってしまったよ。」

「うん、…」

カレルは、その暗がりに男から貰った果物を隠そうとした。

危険な森に入ったことがアニエルにばれないようにしようとしたのだ。

森に行ったことで余計な心配をかけたくなかったのだ。

それに、見知らぬ男についていったことがばれたらもっと大変だった。

アニエルは一月前ほどから国の中央機関から派遣されたソンドグの役人であった。

家族も家もないカレルの実質保護者であった。

アニエルはソンドグに来たその日からカレルの面倒を見てくれていた。

アニエルはカレルに一緒に暮らすように提案したが、

アニエルの妻と子どもがひどく反対したので、カレルは一人で橋の下に暮らし、そこを寝床としていた。

今では食べ物はアニエルがくれるので飢える心配もなかった。

物心付いた時にはずっとそういう物乞いの生活だったので、親も覚えていないし、友達もいないし、 学校にも行った事がないし、かといって働いたこともなかった。

「とにかく無事で良かった。さあ、行こう。うちで白パンを焼いたんだ。あげるからおいで。」

「うん。」

アニエルはカレルが無事だと知ると特に何も追求しなかった。

暗がりの中では果物も見つけられることは無く、カレルはアニエルの家の前で麻袋にパンをいっぱい貰うと橋に戻った。

橋の下の草地に腰を下ろすと、カレルは袋からパンを出してかじりついた。無言で食べる。

半分ぐらい食べてから飲み込むと空を見上げた。

星空だった。

しばらく眺めていたが、また食べ続けた。

パンを一つ食べ終わると、カレルは男に貰った果物を手に取った。

よいしょと腰を上げて川岸まで行くと果物を川につけてちゃぷちゃぷ洗った。

取り出すと一思いにがぶりとかじってみた。

甘くて、思ったよりもやわらかかった。

今まで食べたことの無い味だった。

カレルは夢中になって果物を食べた。

川のせせらぎと風のささやきのほかには何も無くカレルは孤独だった。

次の日、カレルは小鳥のさえずりで目が覚めた。

昨日の曇天とは違い爽やかな朝であった。

太陽は微笑し、青い空に雲がふうわりと浮かび、吹き抜ける風がカレルの体を洗った。

しかし、カレルは不幸を感じた。

カレルには共にこの素晴らしい朝を分かち合う温かい人がいなかった。

だからカレルは朝が嫌いだった。

一日をどう過ごすのを考えるのも嫌だった。

カレルはまず川岸に行くと顔を洗った。

それから袖でごしごし顔を拭くと、橋の下に立ち返り、

麻袋からパンを取り出しまるでごみを食べているかの様にぼそぼそと食べた。

川の流れを見つめながら、カレルは昨日の男について考えていた。

あの男は一体何者なのか。

いつからソンドグにいるのか。

そして何のために。

どうして自分の名を知っているのか。

結局何一つ分かるわけは無かったが、カレルはずっと考えていた。

パンを食べ終わるとカレルは昨日残した果物を手に取った。

その時、橋の上の方から声がした。

「カレル。」

カレルはその聞き覚えある声に慌てた。

あまりにも慌てすぎたので果物を取り落としてしまった。

果物は勢いよくころころと転がり、ぽちゃん、…沈んだ。

カレルはパッと声の主を見た。

アニエルが橋の上からカレルのほうを覗き込んでいたのだ。

「カレル、おはよう…。」

「お、おはよう…アニエルおじさん…。」

カレルは上を見上げた。

アニエルはむつかしい表情でカレルを見ていた。

カレルはぎくりとした。

「今何か落としただろう。」

アニエルは桟にもたれかかってもっとよく見ようとしている。

カレルはまだ3つほど残っている果物をアニエルに見つからないように祈った。

「カレル。昨日森に行ったね?」

どきりとしてカレルは思わず目を伏せた。

しかし口だけは抗った。

「行ってないよ。だって森は危ないんだから。怖くて行けないよ。」

「嘘を吐くな!」

いつになく厳しいアニエルにカレルはどうしてよいかわからなくなった。

「昨日お前が森に入っていくのを見た人がいるんだ。」

「そんなはずはないよ!おじさんのほうが嘘つきだよ。

だって僕、森に入る前に誰も見てないか確かめたもの……あっ!」

言った後でカレルは自分の過失に気がついた。

自ら森に入ったことをばらしてしまった。

アニエルはふうと苛立ったような大きなため息を吐いた。

カレルはうつむいて気まずい空気に耐えようとした。

じっとしていると、アニエルはカレルが想像しえないようなことを言ってきた。

「カレル。私は上の命令で世界政府のあるグラーフ国に行くことになった。お前も連れて行く。いいな。」

「???」

カレルは意味が分からず、必死に理解しようとしたが、かなわなかった。

「明日にでもだ。私は急いで支度を済ませる。準備が出来次第出発だ。」

「どうして?どうして僕も行くの?」

カレルがあまりにも不安げな様子なので、アニエルは少し語調を和らげた。

「お前はグラーフ出身だ…グラーフに帰れば両親に会えるはずだ。」

「えっ…!?」

カレルはびっくりしてアニエルの顔を穴が開くほど見つめた。

アニエルはいつものように優しくなった。

いや、いつもより妙に優しすぎるくらいだった。

「君の両親はグラーフにいることが分かったんだ。彼らは訳あってソンドグまで来れないから私が連れて行く。」

「……。」

カレルは静かな声に惑う。

アニエルはカレルが黙っているので続けた。

「わかったね。迎えに行くからね。今度は森に行ってはいけないよ。」

「…うん…。」

アニエルはちょっと手を振ると去っていった。

その姿を見送り、見えなくなるとカレルは大きく深呼吸した。

緊張していた身体が急に楽になる。

それから考えた。

カレルは自分がグラーフというところの出身だということすら知らなかった。

両親の顔も分からなかった。

何故アニエルはカレルの事をそんなに知っているのだろうという疑問が生まれた。

もしかしたらアニエルは両親の知り合いか何かで、カレルの世話を頼まれているのかも知れないとも考えた。

しかし結局何一つ確実に分かることなどなかった。

その停滞の中にある大きな展開に、カレルは無意識のうちに気がついていた。

何かが起こるのだ。

どう抗おうと、今の自分の生活が大きく変わるのだという感じがした。

日が高くなってきてキルジ通りにざわめきが生まれ始めると、カレルは橋の下を出て通りを歩き始めた。

特に行くところなど無かったが、いつも散歩がてら町を歩くことにしていた。

町の人々はカレルのことなど全く気にもかけずあわただしく行き来する。

それは忙しいからではなく、カレルのことを忌み嫌っていたからだ。

ソンドグの人々は、黒い瞳の人間しか認めることはなかった。

カレルの瞳は深い栗色をしていた。たったそれだけだ。

カレルはキルジ通りからわき道に入った。

しばらく進むと、噴水のある広場にたどり着いた。

カレルはしまったと思って立ち止まった。

そこに、町の腕白坊主たちがいて遊んでいたのだ。

踵を返して戻ろうとした時、一人の子どもがカレルの存在に気がついた。

「カレルだ!!橋の下のカレルだ!!」

「やーい、乞食!あっち行っちゃれ!」

子どもたちはカレルを何か汚いものでも見るような目で見てくる。

カレルにとってはそんな目で見られることだけでも縮みあがりそうになった

。 「これでもくらえ!」

図体の大きないかにも意地悪そうな男の子が、石畳のすき間の小さい石をつかむとカレルに向かって投げつけた。

ヒュッと空を切り、石はおびえるカレルの頬をかすめた。

ピリッと痛みが走った。

すると足がすくんでしまってカレルはもう動けなかった。

子どもたちは当たったと見るときゃっきゃと喜んだ。

面白い遊び道具が見つかったと言わんばかりに、みな足元にかがんで石を拾うとカレルを的にし始めた。

広場には他に大人たちがたくさんいたが、ちらりとカレルを見ただけで誰も止めようとはしなかった。

自分めがけて飛んでくる石をはっきり見据えながら、カレルは身動き一つせずに突っ立っていた。

怖い、と思った。

大きめの石がひざを切った。

その時、ある少年が近くの家につないであった大きな番犬の鎖を解いた。

カレルくらいの少年なら乗ることができそうなほどの大型犬だ。

少年は更に、近くにあった犬の餌皿をカレルの方に向かって投げた。

「行け!行っちゃれ!あいつに噛み付くんだ!そうれ!」

 皿が奪われたと思ったのだろう、ウォンウォンと激しくないて、その獰猛な白い犬はカレルのほうに突進してきた。

カレルはもうだめだと思った。

ところが。

飛びつけばもうカレルに届くというところまで来た時、突然犬が止まった。

カレルの顔を見上げると信じられないといったような瞳で見つめている。

カレルはわけが分からず犬の目を見つめ返した。

犬はパタンと伏せるときゅうきゅうとないた。

「な、なんだあ!?」

子どもたちも何が起きたのか分からずに呆然としている。

と、最初に石を投げた少年が声をあげた。

「ああっ!!?誰だあ!?」

「?」

よく見ると、子どもたちはカレルの後ろの方、しかもかなり上のほうをを見ている。

カレルは恐る恐る後ろを振り返った。

いた。

昨日の灰色の目の男だ。

例の薄汚れたマントを風に遊ばせながら、ソンドグの町の背の高い建物の屋根の上に立ってこちらを見下ろしていたのだ。

そして、急に男は屋根から一歩踏み出した。

ぐらりと男の体が傾いた。

「あっ…!!」

カレルといじめっ子たちは思わず目を伏せた。

あんな高いところから落ちたら……!

トス、という軽やかな音がした。

カレルは目を開けて音がしたほうを見た。

男はシャンとして広場に立っていた。

三階建ての家の屋根から石畳の上にこうも軽やかに飛び降りる人間がいるとは誰しも思っていなかった。

そして…飛び降りた瞬間にフードが脱げたのか、顔が露わになっていた。

日に照らされた男の顔を初めて目の当たりにしたカレルはその美しさに釘付けになる。

微風に靡く栗色の柔らかい髪、色白の細面に鋭く光る狼のような両眼と、強い意志を感じさせる一文字に結ばれた口――

何故だか分からないが、カレルは直感的にこの男が北の方の出身だと感じた。

「やあ、カレル。」

男は穏やかにそう言った。

「ゴーディンが動き始めたな…。」

カレルはまたこの男に驚かされた。

「ゴーディンって…アニエルおじさんのことだね!どうしていろんなことを知ってるの?ねえ。一体あなたは誰なの???」

「説明している暇は無い。ゴーディンにさらわれる前にお前を連れて行く。」

口調は柔らかいが有無を言わさぬ空気が漂っていた。

男はカレルに近づいてきた。

その時だ。

「!!?」

祭りの時にしか聞くことがないようなけたたましい銃声が広場に反響した。

石畳の欠ける音が聞こえたので、人間には弾丸は当たらなかったようだ。

カレルが男の方を見ると、地面に手が届くくらい腰を低めた前傾姿勢で立っていた。

「来たか。」

男がつぶやいた時、カレルは広場に通ずる一つの道の入り口にアニエルが立っていることに気がついた。

その手には今発砲されたと思われる拳銃が握られていた。

カレルは事態が急に深刻になったのに気がついて再び恐ろしさに体が硬直した。

周囲にいたいじめっ子や大人たちも同じであった。

アニエルは急いで走ってきたようで、呼吸と衣服が乱れていた。

アニエルは慌てていて、いじめっ子たちに早口で立ち去るように言うと、カレルと男の方を向いた。

そのアニエルの顔を見た時、カレルは一つのことを決意した。

「……オーリッシュ!!貴様…!!」

 ニエルの顔は今まで見たことが無いような醜い顔だった。

正確に言えば、表情が歪んでいた。

心の内の邪悪が顔ににじみ出てきているかのように。

カレルはほんの少しだがオーリッシュと呼ばれた男の方に近づいた。

男の方もそれに気がついたようで、顔を上げてカレルを見ると微笑してうなずいた。

それから同じ不自然な体勢のままアニエルを見た。

「しばらくぶりだな、ゴーディン。」

「ふ…ふはは…もうこんなところに来ているとは…。」

アニエルは拳銃を構えると近くにいた町の人間に向かって怒鳴りつけた。

「こいつはハイアイアイの脱獄囚の一人だ!!

こいつを捕まえれば一生左団扇だぞ!!

カレルも捕まえろ!!けして殺すな!!逃がすな!」

その言葉にどよめきが起こった。

町の人間は一瞬の間のあと、一斉に男めがけて襲い掛かってきた。

男は躊躇せず唐突にこう言った。

「立て!」

すると今までそこに伏せていた犬が、信じられない速さで飛び起きてカレルのそばまで来た。

「乗れ!」

男はカレルに向かって言った。

「えっ…ええっ!?」

「早く乗れ!」

町の大男がオーリッシュに飛び掛ってきた。

彼はさっと身をかわすと次々にやってくる人々をぬって広場を抜けようとする。

カレルはほとんど何も考えずに猛犬にしがみつくような格好でまたがった。

犬はカレルが乗るか乗らないかというところでもう駆け出した。

勢いでカレルのくたびれた帽子はふっとんだ。

「待て!逃がすな!!捕まえろ!!」

アニエルは半ば青ざめて絶叫した。

オーリッシュは広場の出口に立ちはだかる男を蹴り倒すと振り返ってカレルを確認し、それから再び前に疾走し始めた。

犬はカレルを乗せたままオーリッシュの後に従った。

カレルは犬の背に乗ったままキルジ通りに出ると、もうオーリッシュが大分前の方にいるのを発見し、 なんて速く走る人なんだろうと思った。

まるで、猛き銀狼のように、花舞い散らす春風のように、 空からまっさかさまに落ちてくる陽光のようにオーリッシュはソンドグを駆け抜けていく。

どうやら川の上流に向かっているようだ。ソンドグを脱出するつもりだ。

「!」

マた銃声がした。

犬の足元の石が跳ねとんだ。

後ろを見てカレルはぎょっとした。

町の人ではない、武装した兵のような十数人の一群が押しかけてきていた。

こんな人間たちを今まで全く町で見たことが無かった。

土から沸いてきたものか、空から降ってきたものか、兵士たちはライフル銃を構えてカレルを狙っていた。

「オーリッシュ!助けて!!」

カレルは必死に叫んだ。

オーリッシュは足を痛めるんじゃないかというほど踏ん張って今の速さを一瞬にして完全に止めると、 舞うように振り返り、兵士とアニエルのいる方に向かって突っ込んでいった。

犬はそれを見るとしばらく進んでから立ち止まった。

カレルは犬に乗ったまま兵たちのいる方を見た。

「撃て!なんでもいいから撃て!撃ちまくれ!!」

アニエルが叫んだ時、兵たちは一斉にオーリッシュに向かって発砲した。

しかしオーリッシュの速さは兵たちの能力を大いに上回っていた。

オーリッシュは近くの兵に向かって手を振り上げるとさっと腕を振った。

「うわあああ!!」

男の悲鳴と共に、その顔から鮮血が宮殿の噴水のごとく飛び散った。

それを見た兵たちはたじろいだ。

「素手で…!!?」

その隙にオーリッシュはアニエルめがけて突進する。

アニエルは鬼のような顔で銃を構えると闇雲に撃った。

オーリッシュは巧みに避けると低い姿勢からアニエルに狙いを定める。

マントの陰から現れた腕は端正な顔からは想像できないくらい隆々としていた。

そしてその構えた手の指先には人間とは思えないような鋭い鉤爪が!?

アニエルはオーリッシュを目の前にするとほとんど気を失ったような状態でよろめきながら最期の言葉を発する。

「創られた分際で人に歯向かうのか!このけだものめ!!

一体誰が貴様に知を与えた!!?神か!?シリュビツ様か!!?

何故貴様が、何故、……!!!」

「……知は自ら得るものだ。」

アニエルの言葉が切れるとオーリッシュはアニエルの胸に向かって手を突いた。

鋭い刃を持つ彼の手はアニエルを貫いた。

「ぎゃああああぁぁぁああぁぁあああああぁぁぁぁぁっっっ!!」

アニエルの断末魔が両岸の石の家々に反響して不気味なまでに繰り返された。

兵や、遠くから見ていたカレルは耳を塞いだ。

「"(未定)"は渡さん!!」

オーリッシュは良く通る声で叫ぶと一気に手を引き抜いた。

アニエルの身体はどさりと音を立て、力なく石畳の上に倒れた。

カレルはこの光景を見て卒倒しそうになった。

一体何だというのだ!

オーリッシュはカレルを助けた。

しかしアニエルを殺した。

しかも武器を使わずに。

この男は味方なのか、それとも…???

オーリッシュは手をさっと振ると滴り落ちる血を振り落とし、カレルの方を向いた。

周りにいた兵たちは完全に戦意を喪失し、寝起きのような顔でオーリッシュを見つめていた。

オーリッシュはゆっくりカレルのもとへ戻り始めた。

歩きながら彼は語った

。 「カレル。」

カレルの怯えた目を見据えると、オーリッシュは悲しげに言う。

「言っただろう?森に牛を一頭食い潰す化け物がいるってな。」

カレルは目を丸くして近づいて来る人に有らざる生き物を見た。

まさか、まさかこの男が…?

美しい声は兵と集まってきていた町の人間と、そしてカレルに言葉を刻みつける。

「俺の名はエドワード=オーリッシュ=ゴイヤー。ハイアイアイ国際刑務所から脱獄した三人のうちの一人だ。」

その声は夜空の星のように彬らかで、三日月ごとく鋭かった。

「そしてお前の父親のアンドル=ハルディアの助手だ。」

「!?」

カレルは父の名を聞いて―いや、初めて教えられて―電撃をくらったような衝撃を受けた。

「俺がお前を連れて行く。ハルディアの恩に報いるためにもお前を守る。」

オーリッシュがカレルのもとに来たのでカレルは犬から降りてしっかり立つと 銀狼の穢れなき瞳をまだあどけない子どもの目で見つめた。

彼はふっと笑ってカレルの頭に汚れていない方の手をやるとごしごしと撫でた。

「……お前は本当に父親に似ているな。一目見ただけでハルディアの息子だとわかったぞ。」

………これが、カレルが初めて感じた愛であり、そしてオーリッシュとの出会いであり、そして全ての始まりだった。

カレルは泥のようなまどろみの縁から、激動の現実の煌きが訪れつつあるのを感じていた………