2019年10月22日(火)@調布市文化会館たづくり くすのきホール
森下唯 ピアノリサイタル「ミクロ・マクロ」に行った記録

[行くまでの経緯] 長いので飛ばす
昨年、森下氏の演奏会に行ったところ
大変良かったので、今年も迷わずチケットを入手した。

昨年は演奏会の前に色々なことが起きて全然予習が出来なかったので
今年はしっかり予習をするぞ!と決意していたはずなのだが、
「忙しい」などという怠惰な理由で
ほとんど楽譜を見ることもせずに当日を迎えてしまった。
……予習に乗り気でなかった本当の理由は
メインの演目がベートーヴェンだったことに起因する。
わたしは昔からベートーヴェンが苦手なのである。
聴きたいとも弾きたいとも思わずに数十年生きてきた。
そんな人間が「ハンマークラヴィーア」の楽譜の頁を繰って
一体何を得ることが出来るであろうか?

わたしはまだ、ベートーヴェンを鑑賞するたの脳が出来上がっていないだけかもしれない。
昨年の記事でも言ったが、クラシック音楽というのは
ある程度受容体が発達していないと良さが分からないものだと思う。
この「受容体」というのは、クラシック音楽に於ける「お作法」を知ることだと考えている。
これを知らないと「いい曲だな〜」程度の感動しか抱くことが出来ない。
あるいは、ちょっと聞いただけでは「つまらない曲だな〜」と思える作品に
実は精巧なギミックが仕掛けられていることを見逃してしまう。
わたしは2015年にクラシック音楽の勉強を始めたつもりだったが
実のところ「お作法」については何も学べていない。

もちろん、無知の状態でも大好きな作曲家はいるので、
作曲家によって「好きになる閾値」が違うのだろう。
わたしにとって、ベートーヴェンはその閾値が高いのだ。
今はまだ苦手だが、ベートーヴェンを好きになる確信めいた希望がある。
2015年、ボロボロのピアノを直してもらうために
調律師さんを呼んだとき、こんな会話をした。
「何を弾かれるんですか」と調律師さんに聞かれた。
「クラシックを弾いてみたいと思いまして」
「それなら、ベートーヴェンのソナタをオススメしますよ」
「ベートーヴェンは苦手で……(J.S.)バッハは好きなんですけど」
「バッハが好きなら、絶対にベートーヴェンを好きになりますよ(笑)」
専門家であらせられる調律師さんがのたまうたのだから、間違いない。
いつか「新約聖書」を好きになる日が来ることを祈りつつ、
今回は信頼できる音楽家の導きに身を委ねることにする。怠惰〜。

[開演前]
本日は火曜日であるが、特別な祝日ということでのマチネ公演。
世間の祝賀モードとは裏腹に空はどんよりと暗い。
風が強く、しとしとと雨が降っていた。
気温がぐっと下がり、少し肌寒い。

くすのきホールに来るのは昨年の森下氏の演奏会以来。
13:30開場。いそいそとホールへ。
重い扉をよっこいしょと押し開けると「パララララン!」と鍵盤を拭く音がした。
おや、演奏会で音が鳴る拭き方をするのは珍しいな。
調律師さんの姿を見ようと歩みを進めてステージを見遣ったが、
その時にはもう調律師さんの姿は消えていた。
まだギリギリ開場していないと思って、普通の拭き方をしたのかなと邪推する。

席につく。去年の席が良かったので、今年もほぼ同じ席を選んだ。
ピアノの音を聴くのに一番いい場所だ。
調律師さんも作業を終えたようで姿を拝めそうにないし、
ホワイエに行って森下氏の最新盤を買おうかなと思ったのだが
一度腰を落ち着けてしまったら、なんだか立ち上がるのが億劫になってしまい
帰りに買うことにした(後に後悔することになる)

ろくに予習をしていないのでプログラムを読む。
昨年のプログラムはなんだか難解だった記憶があるが
今年のものは比較的読みやすい印象だった。
読み終えた後はいつものごとく、開演までピアノの下半身を眺めて過ごす。

今日のピアノはスタインウェイ。
昨年このホールで会ったのは「真・スタインウェイくん」だったが
同じピアノとは思えないような音だった。あれ、別の子?
昨年より色味がちょっと濃くて、中高音がかなり甘め。
全体に渋みはほぼ無く、低音のインパクトが若干弱い。
音の飛び方も前回と違う気がする。
かなり後方の席で聴いているのに、
すぐ目の前にピアノがあるように聞こえてくる。
これで昨年と同一人物だったらかなり驚きだ。
針刺されたのか?それだけで音の飛び方まで変わるのか?
それとも奏法に因るものなのだろうか?
判断がつかないので、今日のピアノは「謎・スタインウェイくん」と呼ぶことにする。
トッパンホールの「水色スタインウェイくん」にちょっと似た雰囲気のキャラだと思った)

[前半]
14:00開演。客席が暗くなり、舞台上がパァっと明るくなる。
下手から森下氏が登場。スタスタとピアノの前までくると美しいお辞儀。
椅子に座ると、ステージ中央のみに照明が絞られる。
すぐに音楽が始まる。

前半の曲目。
・ベートーヴェン:6つのバガテル 作品126
・アルカン:エスキス 48のモチーフ 作品63 第4巻

音が鳴り出した途端、あまりの美しさに動揺する。
な、なんだ、このピアノの音は……
とにかく音色がきれいすぎて言葉にならない。
ベートーヴェンには、もっと枯れた平行弦みたいな響きが合うのかと思っていたが
このような瑞々しい、明るい、若くて甘い音も合うのか。
予習不足だったということもあり、
楽曲よりも楽器に魅了されているうちにバガテルは終わってしまった。
今聞いたものは一体何だったのか考える暇もなく、エスキスが始まる。

今日はエスキスを聴きたくてこの場所に来た。
曲が始まると、舞台の奥の壁にプロジェクタで
「37.小さな小さなスケルツォ」とタイトルが表示される。
曲が変わると、次のタイトルが表示。なんという親切な演出。
・43番「小夜想曲――魅惑」
・45番「小悪魔たち」
・48番「夢の中で」
がとても気に入った。45番が一番好き。
わたしは割と映像的な作品が好きである。
……48番の美しいメロディーに酔いし入れていたら
曲のタイトルが表示されていた壁に
突然パワーポイントの画面が表示された!!!
先に夢から覚めちゃった!!!

このエスキスは、「人間」を感じるので好きである。
作曲家の人物像をイメージする時、
有名な作品や一部の逸話だけを切り取って
極端に記号化してしまいがちなのだが、
こういったチャーミングな作品に触れると、
作曲家が「人間」であったことが感じられて親しみを覚える。
楽しくて笑ったり、ぼーっとしたり、なんだか落ち込んでしまったり、
怒ったり、人を面白がらせたり、祈ったりしていた人間だったんだなと。

わたしの趣味だが、この曲集には
ホールの残響と遠鳴りのする大きいピアノは要らない気がした。
もっと小さな部屋で、もっと小さなピアノで、
身近な人たちの中だけで演奏される
極めて個人的な夜会のような雰囲気の方が合っているように思う。

[休憩]
微調整のために調律師さんが出てくるかもしれないと思い
席でしばらく待っていると、最低限の道具とクロスを持って調律師さんが登場。
中〜高音を確認。その後、中〜低音を確認。
低音の一部を直し、鍵盤を拭いて去っていった。
低音を直すのは珍しい気がする。

[後半]
後半の曲目。
・ベートーヴェン:ピアノソナタ第29番 変ロ長調 作品106
 「ハンマークラヴィーア」

前半よりも、やや緊張感がある。音色もシャープでソリッド。
2楽章が比較的好きなので注目していたのだが3、4楽章が良かった。
3楽章は音の美しさを堪能した。
楽曲の勉強をしていないので、何故こんなにも長いのか分からない。
そのため3楽章でかなり体力を消費してしまった。
……ベートーヴェンがもしも現代ピアノに会ったら泣いて喜びそうだな、
などとくだらない妄想をしていたら、あっという間に曲が進む。
感極まった4楽章のラストには非常に心を動かされた。
終わってほしくないと思った。
舞台上の演奏家というのは、もしかしたら、見た目よりも冷静ではないのかもしれない。

[アンコール]
アンコールの曲目。
・アルカン:エスキス 48のモチーフ 作品63
  36番「小トッカータ」
  01番「幻影」

あの「ハンマークラヴィーア」の後に「小トッカータ」!?!?!?
スタミナも凄いし、世界観の切り替えが凄い。
愉快で技巧的で、アンコールにピッタリ。
そして、最後は「幻影」!!
きっとアンコールで演奏されるに違いないと踏んでいた。
今日は「幻影」を聴きに来たといっても過言ではなかったので嬉しかった。
思い出せそうで思い出せない昔の記憶のような音楽。
温かみがあるのに、どこか虚ろで不穏な空気も感じる不思議な曲だ。
謎・スタインウェイくんは「幻影」のために調整されたのではないか
と思えるほどこの曲にマッチしていた。
演奏会の最後を「幻影」のような超難曲で締めるのは凄いとしか言いようがない。
音楽家というのは、一般人とは集中力の精度と維持能力が違うのだろうな。

[閉演後]
今年もいい演奏会だった……
後半からアンコールの流れは素晴らしかったな。

帰り支度をしていると、アナウンスが聞こえてきた。
アンケートを書いて提出すると、ハロウィンのお菓子が貰えるらしい。
「お菓子!!!」と一瞬目を輝かせてしまったが
それだけのためにその場でアンケートを書くのは難しかったし、
かといって適当にチェックマークをつけた物を出したくなかったので諦める。
そもそも、音楽を聴きに来たのであって、お菓子を貰いに来たわけではない。
子どもじゃないんだから、お菓子が欲しいなら自分で買えばよいのだ。

さて、CDを買って帰ろうと物販コーナーに寄ったら
なんと、最新盤は売り切れていた。し、しまった〜!!
まあ、無いものは仕方が無いので、帰路についた。

*        *         *


後日、CDを手に入れた。
買った時からケースが割れていた(写真左下部分)
わたしが乱暴に扱って割ったわけではない。
ディスクが無事ならケースはあまり気にしない人間である。
気になるならケースだけ交換して入れ替えることも可能であるし。

収録されているのはアルカンのエスキス全曲。
森下氏はピティナにエスキス全曲の音源を提供しているが
あのテイクはピアノの状態と録音状態が万全ではないように感じていたので
こうしてCDとして改めて収録されたことに感謝感激。
今回ライブで聴いた曲以外を聴いてみる。
うーん、実に魅力的な曲集だ。
先に述べたように、わたしはクラシック音楽の「お作法」を知らないので
調性云々の面白さを感じ取ることは出来ないのだが、
それでもひとつひとつの楽曲が素晴らしいということはわかる。
因みに49曲の中で一番好きなのは34番だ。
初めて聴いた時は、とてつもない郷愁に駆られて泣いた。
アルカンも、遙か後の時代の縁もゆかりもない東洋人が
自分の曲で泣いているとは思うまい。

わたしはCD付属のテキスト類に不信感があるため普段は読まないが、
森下氏の解説は信頼しているので、ライナーノーツも読んでみる。
各楽曲について短いコメントが述べられるスタイルだったので
これまでのアルカン・コレクションの解説と比べるとかなり読みやすかった。
誰かにアルカンを勧めるなら、まずこのCDを紹介したいと思える1枚であった。

 


あと、昨年発売されたCDの「大ソナタ」をずっと聴かずにとっておいたが
ライブから1年近く経つので、そろそろ解禁することにした。
いやー、これもすごい。
でも昨年のライブもよかったので(特に3、4楽章)
あの感動が上書きされないようにしたいなあ。

*        *         *

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行きつけの楽器屋で雑誌を立ち読みしていたら、
森下氏のインタビュー記事が載っていたので思わず買ってしまった。
主にアルカンのエスキスについてのおはなし。
「読者が弾くならどれが良いか」という質問の答えが「幻影」。
鬼畜アンサーでは!?!?!?!?
まあ、わからんでもないのだが……
相当な技術が無いと、まともに弾けないと思うのだがね。
「幻影」から入って、技術を磨いて、
本当の意味で「幻影」が弾けるようになったら
また戻って来いということなのかもしれない。
他には、45番もおすすめされている。
鬼畜アンサーでは!?!?!?!?
まあ、弾いてて楽しそうではある。
もしも弾くなら、わたしは8番から入ってみたいなあ(34番じゃないのか)

 

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